
ビルボードの夜は、始まる前から少し特別だった。小室哲哉が「ここはホームのようだ」と語る場所。広すぎず、観客と音が自然に混じり合うような距離には、「マニアックでも構わない」という静かな了解が漂っていた。ここでは小室哲哉が、自分の音楽とまっすぐ向き合う姿まで見える気がした。
今回は自由席を選び、整理番号は「4」だった。たった一桁の数字なのに、妙に頼もしい。選んだのは最前列。手を伸ばせば、シンセサウンドの震えに触れられそうな近さである。開演を待つあいだ、これまで聴いてきた小室哲哉と、まもなく目の前で音を鳴らす小室哲哉が、胸の中でゆっくり重なっていった。
「Pure (Hyper Mix)」から始まると、旋律は記憶の奥をたどりながら、今この場所の音として空間を満たしていく。懐かしさは立ち止まるためのものではなく、現在へ入っていく扉になっていた。最前列では、その扉が開く瞬間を間近で見届けているようだった。
曲が終わるたび、小室は小さく「ありがとう」と口にした。ほんの短い言葉である。それでも、何度か耳にするうちに、その夜をつなぐもう一つの旋律のように思えてきた。演奏があり、拍手があり、小さな感謝が置かれる。次の曲は、その「ありがとう」の余韻から始まっていく。大きな出来事ではないからこそ、妙に忘れがたい。
「Resistance」や「Love is All Music」が続く流れには、ヒット曲を並べるだけではない、小室自身の音楽をたどる時間があった。曲名を知っていることと、その曲が目の前で鳴ることは、やはり別の体験だ。記憶の中では輪郭の定まっていた旋律が、今の彼の手を通ることで、もう一度こちらへ歩いてくる。
そしてMind Controlをしょって「I Want You Back」。この曲が置かれたあたりで、場内の空気は勢いよく跳ね上がった。壁まで震えるように感じたのは、音量だけの話ではない。観客の記憶や期待まで一斉に動き出し、コンパクトな空間の隅々へ音が行き渡っていく。最前列という席は近さを喜ぶ場所であると同時に、その熱が後方へ広がっていく起点を見つめる場所でもあった。
ゲストのBeverlyと届けた「One Vision」も、この公演の流れに確かな色を添えた。小室が書き下ろし、Beverlyのアルバム『from JPN』に収録された曲が、「HIT FACTORY #2」という一夜の中で鳴る。二人の交流が一曲のかたちを取り、客席の前へ差し出される時間だった。

最後まで聴いて残ったのは、過去の栄光を眺めたという感覚でも、懐かしさだけに包まれたという感覚でもない。小室哲哉が今なお自由に、素直に、音楽と向き合っている姿だった。「Pure」から「Seven Days War」まで、その日に選ばれた曲は一つの長い道筋を描いていた。その道の途中には、何度も小さな「ありがとう」が置かれていた。
整理番号「4」は、終演後にはもう単なる順番ではなくなっていた。最前列へたどり着き、指先の先にある音を聴き、小さな感謝の言葉を拾った夜の入口を示す数字である。あの夜のBillboard Live TOKYOには、音楽が好きな人の響きが、近く、濃く、そしてまっすぐに満ちていた。