
何年ぶりだろう。野球場へ足を運ぶという行為そのものが、すでに少し非日常めいていた。熱心な野球ファンというわけでもない私を東京ドームへ向かわせたのは、息子のささやかな一言だった。
せっかくなので、親子でジャイアンツのファンクラブに入会した。ファミリー申請というひと手間の先には、リュック、アイス、Tシャツ、ピンズが待っていた。ひとり三千円ほどで、入場前から両手に小さな戦利品が増えていく。野球を観に来たはずなのに、まだ一球も投げられていない段階で、すでに一日分の出来事を受け取った気分である。
ドーム内に入ると、売店の誘惑が途切れない。目はグラウンドへ向かいたがり、胃袋は売店のほうへ寄り道したがる。席はビーム席。視界は思っていた以上に開けていて、グラウンドも観客席も含めた東京ドーム全体が、大きなひとつの舞台として収まった。
ときおり、ファウルボールが客席へ思いがけない軌道で飛び込んでくる。その瞬間だけ、広い球場の一角に緊張がきゅっと集まり、すぐに笑いへほどけていく。観客席は試合を見る場所であると同時に、いつボールの行方へ巻き込まれるか分からない場所でもある。そのわずかな落ち着かなさが、座席とグラウンドの距離を急に縮めてくれた。
この日は巨人対DeNAの3回戦。巨人の先発は井上、DeNAは石田裕だった。4回表に佐野の本塁打でDeNAが先制する。巨人も走者を出しながら機会をうかがうが、得点のないまま試合は進んだ。選手の名前をほとんど知らない私にも、一球ごとに場内の空気が膨らんだり、しぼんだりするのはよく分かる。野球には、動いている時間だけでなく、次の一球を待つ間にも形がある。
7回裏、二死二、三塁で代打の大城がライトへ3ランを放った。打球が試合の流れを丸ごと連れていくような一振りだった。場内の歓声は、ばらばらの声が急にひとつの大きな塊になったように響く。そこに至るまでの静かな蓄積があったからこそ、逆転の瞬間はひときわ鮮やかだった。
8回は大勢が三者凡退に抑え、9回にはマルティネスが登板した。選手登場の映像とともに抑えの投手が現れる場面には、物語の最終章めいた重みがある。宮﨑の適時二塁打で1点差となったものの、巨人が3対2で逃げ切った。勝敗が決まったあとも、歓声はすぐには消えない。音だけが席の周囲に残り、試合の終わりを少し引き延ばしていた。








そして、この日の記憶には続きがあった。試合後、ついさっきまで選手たちが真剣勝負を繰り広げていたグラウンドへ降りられたのである。ファンクラブ入会をきっかけに手にした機会だった。当日入会でも整理券を受け取れることがあり、毎試合実施されるかは定かではない。その少し気まぐれな巡り合わせも、特別な時間の入口らしく思えた。
観客席から見ていた人工芝へ、自分の靴で踏み出す。ほんの少し前まで遠景だった場所が、急に足元になる。その変化が妙におかしい。写真を撮り、やがてそのままごろりと寝転がった。試合中、選手たちは立ち、走り、投げ、打っていた。その場所に、こちらは全身を横たえている。東京ドームのグラウンドを最も大きく使う方法は、案外、ごろごろすることなのかもしれない。
人工芝の上から見上げると、いつもの上下関係がすっかり逆になる。先ほどまで自分がいた観客席が周囲にそびえ、球場という器の深さが身体に伝わってくる。寝転ぶという行為には、その場所への警戒を解いて身を預ける感じがある。勝負の余熱が残る場所でそんな無防備な姿勢になると、現実の目盛りが少しだけずれた。
野球を深く知らなくても、打球の行方に息を止め、登場映像に気持ちを持ち上げられ、歓声の中に混ざることはできる。そして試合が終われば、遠くに見えていたグラウンドで寝転がることまでできた。東京ドームは、最後の一球のあとにも体験を残していた。あの日の3対2を思い出すとき、逆転の一振りと同じくらい鮮明に浮かぶのは、人工芝に背中を預けた自分の姿なのである。

