
生まれ年と同じ数字を掲げた1970年の大阪万博は、私にとって実体のない原風景だった。
写真と語りのなかで巨大化し、太陽の塔は永遠に越えられぬ象徴として胸に居座っていた。
愛知万博にも足を運び、未来をのぞき見た気にはなったが、万博という言葉が本来持っていた熱量は、やはり大阪にこそ宿るのではないかという思いは消えなかった。

21世紀になり、夢の装置は日常に降りてきた。スマートフォンは掌に収まり、リニアは現実の計画となり、未来はすでに所有物のように扱われている。
そんな時代に万博は本当に人を高揚させるのか。懐疑心を携えたまま会場へ向かった自分は、どこか理屈っぽい来訪者だった。

しかし大屋根リングを肉眼で見上げた瞬間、その疑念はあっさり崩れ去る。
円環は空を縁取り、歩くという行為を祝祭へと変換する巨大な思想装置だった。未来は便利さの延長線ではなく、こうして身体ごと包み込まれる体験として立ち現れるのだと知る。

気がつけば、幼い頃に借り物として憧れていた1970年の万博像は、静かに上書きされていた。
太陽の塔に及ばぬかどうかなど、もはや問題ではない。大阪・関西万博は、過去への郷愁ではなく、今この時代に生きる者の心拍数を確かに上げる。
未来はまだ、行き先として存在している。
